【日本の冒険家】21才で単身サハラ砂漠横断に挑んだ上温湯隆がすごい!

      2017/09/13

kamionyu

冒険家が挑む場所って言うとどんな所をイメージしますか?

おそらく一番多いのが山、次いで海なんじゃないかと思いますが、砂漠なんていうのもあったりします。

このページで紹介するのは、その熱い生き様が心を打つ、世界最大の砂漠に挑んだ若き冒険者の話です。

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上温湯 隆

略歴

上温湯隆(かみおんゆたかし、1952年-1975年)は「世界初の単独行によるサハラ砂漠横断」に挑戦した青年。

6才の時に家族とともに鹿児島から上京。高校を一年で中退し、国内航路の貨物船の見習い調理師として働いて資金を貯めた。

学年で言えば三年生の冬、その資金を元に初めての海外放浪に旅立つ。

台湾を皮切りにアジア、ヨーロッパを経てアフリカ大陸へたどり着いた上温湯隆は、エジプト、スーダン、エチオピア、ケニア、タンザニアなど計50ヶ国を回る。

この時の旅の手段はバスや鉄道、船や飛行機、そしてヒッチハイクなどで、彼は時計回りにアフリカ大陸のほぼ全土を訪れている。

2年3ヶ月ぶりに日本へ帰った上温湯隆は、大学検定試験を受けた後、再びアフリカに戻って東西およそ7,000kmもあるサハラ砂漠を単独で横断する計画を立てた。

1974年1月下旬、21才の彼はアフリカ西岸にあるモーリタニアのヌアクショットをスタートし、史上初のラクダと人間「一人と一匹」によるサハラ砂漠単独横断に挑む。

当初は164日間でアフリカ東岸にあるスーダンの町・ポートスーダンに到達する予定だったが、6月初旬に同伴していたラクダ、サーハビーが衰弱死してしまう。

スタートから2,700km地点。彼はここで旅を一時中断し、ヒッチハイクでナイジェリアの都市ラゴスへ入った。

ここで後に彼の手記をまとめて本を出すことになる時事通信社特派員の長沼節夫と出会い、同社ラゴス支店で働く。

貯金をしつつ、日本の実家からも資金を送ってもらい、翌1975年4月にラゴスを発つ。

新たなラクダを購入すると、5月中旬にマリのメナカからサハラ砂漠横断の挑戦を再開したが、その直後に消息を絶ってしまう。

 

……そして5月末、そのメナカから東に約130kmの地点で彼、上温湯隆の遺体が発見される。

死因は飢えと渇きによる渇死。

近くに荷物も無くラクダも居なかったことから、何らかの原因でラクダに逃げられたことが死に繋がったとみられる。享年22歳。

 

ここが凄い!!

上温湯隆が挑んだこの「単独によるサハラ砂漠横断」という冒険は、彼の死後まとめられた手記が本として出版され大きな反響を呼ぶと、目指すべき一つの大きなロマンとして何人もの日本人フォロワーを生んでいる。

世界最大の砂漠・サハラ砂漠の東西約7,000kmを単独で横断するなんていう事は、キャラバンを組み日々サハラを行き来している現地の遊牧民トゥアレグ族ですら不可能と断言する挑戦であり、どれだけ難易度の高い冒険だったかは正確にイメージすることすら困難だ。

僕が彼、上温湯隆のことを書いた「サハラに死す」という本と出会ったのは、初めて訪れた南米エクアドルで現地の宿に長期滞在していた時。

その時の僕はスペイン語を勉強するためにこの国に来ていて、たまたま同じ安宿に連泊していた日本人がこの本を貸してくれた。

僕はじっくり噛み締めるように何日もかけて読んで、上温湯隆の物語を追体験し、そしてその迸るような熱い生き様に心を強く動かされた。

彼はこの挑戦までに英語とフランス語をマスターし、帰国後は国連機関で働きたいという夢に向けて勉強もしていた。

現地の市場でラクダを買い、体当たりで扱い方を覚えながら熱砂の海へ立ち向かって行った。

20才そこそこの若者で、たった一人でここまで出来る人間が果たしてどれぐらいいるだろうか?

彼が挑戦する少し前、イギリスの作家が現地遊牧民のガイドを付けラクダ5頭を連れて同じくサハラ横断を試みた記録がある。

それでも半分、およそ3,500kmまで進んだところでラクダを失い、命からがら撤退した。

その砂漠に彼は、ガイドも無く"一人と一匹"で挑戦している。

たしかに無謀な部分はあっただろう。

けれど冒険とはどこかに必ず無謀を含んだものだと僕は思うし、だからこそ残した足跡は人の魂を震わせる。

 

上温湯隆の墓

彼の墓はアフリカのマリ共和国、ニジェールとの国境近くにあるメナカ(Menaka)の町外れにある。

現地の家の主な材料でもある土を焼いたレンガで造られているようで、漢字と英語併記で彼の名前、生年と没年、そして「サハラに懸けた青春の記念碑」という文字が掘られている。

半分崩れてしまっているとの情報もあるので、現状どうなっているのかは分からない。

 

ちなみに彼の遺骨は、1984年にメナカを訪れた広木武夫という人が受け取り、東京で待つ彼の母の元に届けられた。

だがその母も、遺骨を受け取ったわずか3ヶ月後に自宅で病死。言葉にならない寂しさを感じる。

 

上温湯家の墓がどこにあるのかは少なくともネット上には情報が無いですが、もし知っている人がいたら教えて下さい。お墓参りに行きたいと思っています。

 

僕が読んだのは上温湯隆本人が実際に書き残した日記や母に送った手紙などがまとめられて本という形になったもの。

フィクションではありえないその迫力は、読んだ人の心にきっと熱いものを残すだろう。

 

 

 

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 comment
  1. 廣木武夫 より:

    生き方を渇望した一人の青年の死。
    生きている者たちが、
    伝えていかなきゃならないんだろうね。
    青春の羅針盤

    久しぶりに聞いた上温湯隆の名前
    同時代に生き自分を見つめた青春時代

    廣木武夫

    • KOU KOU より:

      廣木さん、コメントありがとうございます。
      僕も彼の生き様に強い刺激を受けました。

      ところで廣木武夫さんてまさか……上温湯さんの遺骨を日本に届けたあの廣木武夫さんですか!?
      もしそうならお話聞かせて頂けたりしませんか!?

      • 廣木武夫 より:

        広木です、
        私でよければ、いつでもどうぞ
        静岡県島田市に住んでいます。

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