【本当に凄い!!日本の冒険家】鎖国のチベットに潜入した僧侶、河口慧海

      2017/07/05

kawaguchi

今から約120年ほど前の話。

1950年代初頭の中国共産党軍による侵攻以来、中国に支配されその一地方として扱われているチベットですが、その頃は独立した国として存在し、ほぼ鎖国の状態にありました。

日本は当時、明治時代。国交も無く、鎖国中で、日本人はまだ誰一人として入国したことがないそのチベットに、仏教の原典を得るため単身潜入したのが僧侶の河口慧海でした。

 

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河口慧海

略歴

河口慧海(かわぐちえかい、1866~1945)は江戸時代末期の慶応2年、摂津国堺(今の大阪府堺市)生まれ。

1890年、25才(以降もすべて数え年)の時に出家して僧となり、その後、五百羅漢寺の住職となっています。

これまで日本で読まれていたお経の多くは、原典であるサンスクリット語から一度漢語(中国語)に翻訳された後に、さらに日本語に訳されたものだったので、「教えの内容」つまり言っていることがバラバラになっていた。

要するに伝言ゲームをしているうちに途中で内容が変わってしまうようなものです。

河口慧海はその状況に疑問を持ち、それならば自分が、今も原典の残ると言われるチベット(当時は西蔵と呼ばれていた)に行って直接経典を持ち帰ろうと決意します。

1897年6月、32才の河口慧海は神戸港から船で出発し、シンガポールを経て当時はイギリスの支配下だったインドのコルカタに到着。そこから人づてで紹介を得たチベット語学者の住むダージリンへ。

そのダージリンで約1年間学校に通ってチベット語を習いつつ、鎖国しているチベットへの潜入ルートを調査。その結果、ネパールから入るのがもっとも可能性が高そうだという結論に至りました。

そして仮にチベットに入れたとして、中で会った人に正直に「日本人です」と名乗れば逮捕されてしまうので、以後は当時チベットとの行き来のあった中国人のフリをすることにした。

1899年、ネパールの首都カトマンドゥに行き、ここに滞在しながらチベット行きの間道が無いか丹念に調べる。

見付けたルートを使い山奥の村からこっそりと国境を越えるつもりだったけれど、警備が厳しくて進めない。

仕方が無いので途中の村で1年以上勉強をしたりしてまた時期を待ち、ついに1900年7月、雪解け直後のヒマラヤ山脈を密かに越えてチベット入りを果たした。

 

ここが凄い!!

この河口慧海という人はものすごい勉強家であると共に、とにかく粘り強い。

日本人とバレると身の危険があるので彼は途中から中国人と称していたが、これはよほど上手に中国語が話せないとすぐにバレてしまう。

そして非公式の抜け道を使ってネパールからチベットに入ろうとした時も、警備の厳重さを知って諦めるのではなく付近の村々に住み込んで別のルートを探し、雪解けのタイミングを見計らって国境越えを成功させている。

1901年には首都ラサで2番目の規模を誇る大学に今度はチベット人僧侶として入学を許可されている。

その後勉強に励む傍ら、ある男の脱臼を治してやったことから徐々に医師としての名声を得るようになり、法王ダライラマ13世との謁見を許可され、ついには大臣の邸宅に住み込むまでになった。

しかし翌1902年5月、「実は日本人ではないかという容疑が掛けられる」との情報を得て急遽ラサを脱出!親しくしていた人々の手助けもあって無事インドに逃げ延びることができた。

120年近く前の大冒険。GPSもゴアテックスも無い時代に、たった一人でヒマラヤの峠を越えるのがどれだけ大変なことか。ただただ驚くしかない。

 

河口慧海は帰国後、新聞にこの旅のいきさつを連載して大反響を呼んだ。

「チベット旅行記(原題:西蔵旅行記)」はそれを書籍化したもので、僕も上下巻読んだけれど、ヒマラヤ山脈を越えて命がけの入国を果たす場面などは思わず手に汗握りました。

文章もとても読みやすく、当時のチベットやその周辺地域の暮らしの様子、食生活、そして奇妙な風習などについても細かく書かれています。

胸躍るような冒険の好きな人だけでなく、海外の文化などに興味がある人にもおすすめです。

 

 

 

 

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