明治の世界一周男!五大陸を放浪した旅行狂、中村直吉。

      2018/09/28

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今から100年以上前。海外旅行なんて一般庶民には夢みたいな時代に、富豪でもなく外交官でもないのに世界一周した男がいた。

その男の名は中村直吉(なかむらなおきち)。

このページでは自身を「旅行狂」と称した彼の旅路を追跡します。

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北米での十年

中村直吉(1865~1932)が生まれたのは江戸時代の末期、明治になる3年前。アメリカでは史上最も有名な大統領の一人、リンカーンが暗殺された年。

三河国(現在の愛知県豊橋市)に生まれた直吉は、1887年(明治20年)に福沢諭吉が提唱したとされる「アメリカ日本村建設構想」に共鳴して参加を志したものの、建設構想の責任者が政変に関わった容疑で逮捕されるなどして計画そのものが白紙に。

「なら一人でも行ってみるか!」と翌1888年(明治21年)春に単身渡米した直吉。その時既に結婚して子供もできていたのに行動力が凄い。

現地で働きながら北米各地を回り、5年後の1893年(明治26年)に一時帰国。この時子供は5才になっていた。地元豊橋市で帽子店を開業し、政治に興味を持った彼は政党にも参加する。

翌1894年、帽子屋も子供の世話も妻に任せて再び日本を発った直吉は、当時王政が終焉を迎えアメリカ併合の時が着々と迫っていたハワイや、まだイギリスの自治領だったカナダなどを5年ほどかけて巡る。

1898年に帰国したのも束の間、1901年(明治34年)に今度は「世界徒歩無銭旅行」という看板をブチ上げ、世界一周に旅立った。中村直吉、この時36才。

ちなみに…無銭旅行なんて聞くと所持金ゼロでスタートしたのかと思うけど、計画に賛同した10人のスポンサーから10円ずつ、計100円の出資を受けていたらしい。

当時の物価を調べてみると、明治30年頃の小学校教員の初任給が9円ぐらいだったようなので、当時の10円はだいたい今の20万円ぐらいに相当。つまり200万円前後を持って出発したことになり、今ならそれだけで十分世界一周できてしまう金額だったりするんだけど、当時は今みたいな航空路線は無い。

船や鉄道での移動にはより長い日数とその分食費も宿泊費もかかる。当然200円じゃ足りないので、立ち寄った各地で現地在住の日本人などにお世話になっていたようだ。

 

世界無銭旅行のルート

1901年(明治34年)8月、豊橋(愛知県)から東海道線の下り列車に乗って九州へ着いた直吉は、船で長崎から朝鮮半島へ。

当時まだ清だった中国の上海やイギリス領だった香港、シンガポール、少し足を延ばしてマレーシアのジョホールにも立ち寄っている。その後再び汽船でシンガポールからマレー半島半ばにあるペナンへ。

1902年4月30日、ペナンから出るビルマの首都ラングーン(ヤンゴン)行きの船の船長に直談判して無賃乗船に成功。翌日5月1日にラングーン到着。

ラングーンから往復無賃で列車に乗せてもらい古都マンダレーにも立ち寄る。

1902年6月12日、船でラングーンを出発し、インド東部最大の港町カルカッタへ。

インドでは8月6日にカルカッタを発ち、ブッダガヤ、ベナレス(ヴァラナシ)、タージマハルのあるアグラなどに立ち寄って西岸のボンベイ(ムンバイ)に到着。この移動は全て鉄道だ。

その後ペルシャ(イラン)を抜けてヨーロッパへ向かう。

ヨーロッパではイタリア、フランス、そしてドーバー海峡を渡ってイギリスへ。スコットランドでは当地最大の淡水湖であるネス湖(当時はまだ例の写真が撮られてネッシー論争で有名になる前)にも寄っている。

その後スペイン、ポルトガルを経てジブラルタル海峡の南、アフリカ行きの船に乗船。途中エジプトでピラミッドやスフィンクスを目にし、大西洋の孤島マディラ島にも寄港。そして1903年(明治36年)5月にはアフリカ大陸南端の街、ケープタウン(南アフリカ)に到着した。

ここから陸路で世界最大のダイヤモンド鉱山の町として有名だった内陸のキンバリー、そして東海岸のダーバンへと抜け、さらに北上してザンジバル、タンガ、モンバサを経由し、紅海を通って再びヨーロッパへと戻る。

地中海からフランス、ドイツ、そして当時ロシアの首都であったサンクトペテルスブルグやモスクワへ。さらに北欧諸国を回った後にロンドンから大西洋を渡りアメリカに入る。

 

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ニューヨークに着いた直吉は、アメリカ大陸を横断すると、サンフランシスコからセントルイスへ向かう。

この地で開催されていた万国博覧会(1904年)を見学しつつ一ヶ月ほど滞在した後に陸路で南下、1905年頃(明治38年)には南米に現れる。

ペルーからブラジルへは手漕ぎのカヌーを借りて現地人を雇い、狩りや釣りで食料調達をしつつアマゾン川を下ってマナウスそしてベレンへと到達。その後は海路キューバ経由で北米に戻り、サンフランシスコから出港。

ハワイに寄港すると今度は南へ。ニュージーランドでは北島のオークランドから南島のダニーデンまでほぼ陸路を使い、続いて向かったオーストラリアではタスマニア島、メルボルン、シドニーなどを巡った。

ついにユーラシア、アフリカ、北米、南米、オーストラリアの五大陸制覇を達成した直吉は、さらに南洋の島々やフィリピン、香港、台湾を経て帰国の途に就いた。

1907年(明治40年)6月、5年10ヶ月にわたる世界一周の旅を終えて神戸港へと帰還した直吉は43才になっていた。この間に訪れた国は60ヶ国にも上る。

 

直吉の旅の様子

当時のパスポートは今みたいな手帳型ではなく、顔写真も無かった。もちろんそれだけでも問題はないんだけど、直吉は自分で用意した「世界各国旅行証明簿」という手帳も持参している。

この最初のページに英語で貴族院議員からの紹介文をもらっていて、以下訪れた各国の日本領事やセントルイス万博総裁、その他世界で出会った大物らのサインが数百も書かれている。

「この男は怪しい人間ではありません」という信用状としては効果十分だったようで、行く先々で現地邦人をはじめ様々な人の助力を得ることが出来た。

 

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アマゾン探検時の直吉の写真。一般的にイメージされる典型的な探検家の服装(ふしぎ発見!のひとしくん人形の服装)に近く、口髭をたくわえ、手にはステッキを持っている。

ちなみに、たすき掛けにしている布はハワイの王族から贈られた物らしい。

英語とスペイン語をはじめとしてその他数ヶ国後に通じていたと言われる直吉。日々移動しては新しい人たちと会い、親交を深めた彼は、今で言うコミュ力が半端なかったに違いない。

 

当時の物価

五大州探検記の2巻に船賃が記載されている。

それによると、シンガポールからビルマの首都ラングーン(ヤンゴン)までの汽船で中等(船室?)なら50円、甲板で寝起きする甲板客(デッキパッセンジャー)なら9円。

シンガポールからマレー半島の中ほどにあるペナンまでなら中等で30円、甲板客で4円程とある。

また時間のある時にでも、依光方成の「三円五十銭世界周遊実記」(これはさらに15年ほど前の話だけど)なども参考に調べてみるつもり。

 

帰国後の直吉

当時冒険小説家として著名だった押川春浪との共著という形で出版した「五大州探検記」は人気を博し、講演依頼も多く舞い込んで日本各地に呼ばれたらしい。

その後は私設の移民相談局を開設したりして、1928年(昭和3年)には65才で地元豊橋市の市会議員にも立候補するが、あえなく落選。

心機一転で南米に移住しようとしたけれど、手続きのため上京した1932年(昭和7年)の7月、かき氷を食べて心臓麻痺を起こし、この世を去った。享年69歳。

 

彼の世界旅行はその広大な範囲って点で凄いものの、移動は主に船と汽車。冒険的要素があったのかと考えると、あまりそうは思えないかもしれない。

それでも今より遥かに海外へのハードルが高かった時代。一人臆することなく世界五大陸をさすらった直吉の旅は、僕らに新鮮な驚きを与えてくれる。

 

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