本気で凄い日本の冒険家、何人知ってる?

      2017/09/30

boat

こんにちは、KOUです。

僕はこれまでヒッチハイクで日本を一周したり、ニュージーランドを一周したり、南米パタゴニアでは野宿をしながら最南端の街まで徒歩で1,000km歩いてみたり、東ヨーロッパを自転車で80日間かけて縦断したりしてきた、生粋の旅好きです。

「冒険」というものにも強い憧れがあって、強いハートを持った先人たちによる「ものすごい挑戦」の足跡に心を奪われてきました。

いつかは自分も……なんて思ったりもします。

ところが!

ところが最近はメディアへの売り方が上手いだけで、肝心の冒険の内容については「???」と疑問符の付くような人が注目を集めることが増えてきました。

まとめサイト等の「日本のすごい冒険家まとめ」なんかを見ても、「おいおい、これ適当に情報拾ってきただけでまとめてる人が何も分かってないな~」というケースが多い、いやそんなのがほとんどのように感じます。

そこでこのページでは冒険に対する思い入れが強い僕が、「本当に凄い!!」と心から言える真の冒険家たちを知名度アリナシ抜きにしてピックアップしてみました。

いや、本当に凄いんですよ。

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本当に凄い冒険家たち

植村 直己(うえむら なおみ)

植村直己(1941~1984)は言わずと知れた日本一有名な冒険家。

この人の名前ぐらいは登山や冒険に特別興味が無い人でも聞いたことがあるんじゃないかと思います。

彼が成し遂げた冒険には「史上初」と冠が付くものだけでも、世界五大陸最高峰登頂や犬ぞりによる北極点単独行、冬季マッキンリー(現デナリ)単独登頂などがあります。

植村直己(本名:直巳)は兵庫県に生まれ、同郷の登山家・加藤文太郎(「孤高の人」のモデル)に憧れて山行を始める。

高校卒業後に一度は地元の会社に就職するが、翌1960年明治大学に入学し上京。同大学山岳部へ入部する。

1964年に大学を卒業するが就職活動に失敗。

兄・植村修の援助で当時横浜港から出ていた移民船「あるぜんちな丸」に乗ってロサンゼルスへ渡った。苦労の末仕事を見つけるが不法就労で逮捕。

その後フランスに渡米し、スイス国境近くのモルジヌというスキーリゾート地で冬季五輪の金メダリストに雇われて資金を貯めつつ登山に励んだ。

1966年は7月にモンブラン及びマッターホルンへの単独登頂を成功させ、10月にはキリマンジャロも単独で制覇した。

1968年、4月から6月にかけて南米アマゾン川を6,000km単独筏で下り、その後約4年半ぶりに帰国。

山岳部で一緒だった大学の先輩誘われて、日本山岳会が派遣することになったエベレスト登頂隊に参加。参加費用を用意できなかったのでルート工作員としての参加だったが、その体力を認められ松浦輝男と共に第一次アタック隊に選抜される。

その結果として1970年5月、松浦と共にエベレストを日本人として初めて登頂。

続いて同1970年8月にはマッキンリーに単独登頂し、世界初の五大陸最高峰登頂を達成した。

1971年1月、冬季グランドジョラス北壁完登。

1972年9月から翌年2月まではグリーンランドで現地のイヌイットと共同生活をし、極圏で生き抜くための様々な技術を学ぶ。

1973年2月から4月にかけてはそのグリーンランドを単身犬ぞりで3,000km走破している。

1978年の犬ぞりによる北極点単独行の際はナショナルジオグラフィック協会のスポンサードを受け、極点到達後には日本人として初めてナショナルジオグラフィックの表紙を飾った。

同じく1978年には犬ぞりでのグリーンランド単独横断も成し遂げている。

1979年にはイギリス王室からも賞を贈られ世界的名声を得る。

1984年2月12日、43才の誕生日に世界初の"冬季"マッキンリー単独登頂に成功するが、その翌日の通信を最後に消息不明。

捜索が行われたが、遺体は今も見つかっていない。

 

植村直己はエベレストに挑んだ時の経験から、多数の裏方にサポートしてもらって極一部の者だけが登る登山法=「極地法」に疑問を持っていたそうです。

けれどその一方、犬ぞりによる北極圏挑戦の際などに、大手スポンサーのバックアップによって食糧その他、犬やそりまで飛行機による補給を受けていたので「単独行の名には値しないのではないか」との疑問の声や、一部批判も受けています。

僕もこの犬ぞり探検に関しては、現地でイヌイットと同じ暮らしをして技術などを学ぶところまでは良いのに、その後飛行機で補給を受けたのは方法を誤ったんじゃないかな、と思います。

ただ、それを抜きにしても余りある実績があるのは凄いです。

 

上温湯 隆(かみおんゆ たかし)

上温湯隆(1952~1975)は弱冠21才で、当時世界でまだ誰も成し遂げていなかったサハラ砂漠の単独横断に挑んだ青年。

アフリカ西海岸にあるモーリタニアのヌアクショットから、東海岸のスーダンにある街、ポートスーダンまでの約7,000kmを、現地の市場で買った一頭のラクダと共に進む計画を立てた。

 

あの世界最大の砂の海をたった一人と一匹でですよ!?

僕は南米に行っていた時に彼の手記がまとめられた本を読んで感銘を受けました。

彼についてはこちらで書いています。

【日本の冒険家】21才で単身サハラ砂漠横断に挑んだ上温湯隆がすごい

 

河口 慧海(かわぐち えかい)

河口慧海(1866~1945)はおよそ120年前、当時鎖国していたチベットに日本人で初めて単身潜入した僧侶。

当時日本には無かったサンスクリット語の仏教の原典を求めて横浜港から出国。

インドでチベット語を学びつつ情報収集し、ネパール北西部からこっそり入れるルートがあると聞いて向かったが、すでにそのルートは警備が厳格化され通れなくなっていた。

地元の村に住み着いて別のルートを探り、雪解けのギリギリの時期を待って一人ヒマラヤ山脈を越え、ついに入国を果たしたのは日本を出て3年後のことだった。

 

たった一人ガイドも無しにまだ雪が残るヒマラヤを越えて密かにチベット入りした後、彼はチベット人と身分を偽って国内の大学に入学を許されます。

もともとチベット人と日本人の顔付きは似てるとしても、普通は言葉ですぐバレそうなもんですよね?

それがバレなかったんだから相当チベット語が流暢になってたんでしょう。

首都ラサの大学で仏教を学ぶと共に、医師として信任を得て法王の侍従医に推薦されるほどになります。

それでも最後は日本人であることがバレてしまい決死の逃避行ってことになるんですが…

彼についてはこちらでもうちょっと書いてます。

【日本の冒険家】120年前、鎖国中のチベットに潜入した河口慧海がすごい!

 

ちなみに近年でもチベットからネパール・インドへ、雪の積もるヒマラヤを密かに越える人々がいます。

国境を見張っている中国軍に見つかると銃撃されるリスクを負った上で、それでも支配されたチベットから自由を求めて逃げる人々。その中には幼い子供もいます。

僕はインドのダラムサラで逃げてきたチベット僧と話をする機会があったんですが、中国共産党の支配が続く限り一生故郷には帰れないし家族にも会えないと言っていました。

考えさせられる問題です。

 

藤村 正人

藤村正人(1958~)は大阪府出身のヨットマン。26才から小型木製ヨットの自作を始め、5年の歳月をかけて完成させる。彼は全長7.3mのその艇を「希望号」と名付けた。

その翌年の1991年5月、32才の時に結婚。式の2時間後には妻と共に艇に乗り込み、新婚旅行を兼ねてハワイへ向け出航した。

出航3日目になんと、係留していた艇が沈没してしまうというアクシデントに見舞われるが、1ヶ月かけてそれを修繕した。

再び2人でハワイへと向かうが、途中で妻の妊娠が発覚。無事到着した後、妻を降ろして一人そのまま世界一周へ。

南、そして西へ向かい、ニュージーランド、オーストラリア、タイなどに寄りつつ、インド洋からスエズ運河を通って地中海へ。

フランスのマントンで希望号をレストアし、ジブラルタル海峡を抜けて大西洋を横断。

カリブ海からパナマ運河を抜け、1996年5月にたどり着いたタヒチで丸5年間かけた世界一周を達成した。

その後も1年ほどミクロネシア、グアム等を回り、1997年5月ついに沖縄に帰着。

 

僕がこの人を知ったのは、ヒッチハイクで日本一周をしていた時。

立ち寄った佐世保港にこの希望号と経歴が展示されていました。

実は彼が世界一周航海をしている間に日本の法律が変わり、現在は希望号のような装備では国内の海を走ることが出来なくなっているらしい。

安全のためなんだろうけど、よりお金をかけていろいろな設備を整えないとそもそも艇を出すことが出来ないなんてちょっと夢の無い話。

藤村正人氏のその後に関してはあまり情報が無いですが、獣医師であることは分かっているのでどこかで動物病院などやっているのかもしれない。

 

片岡 佳哉(かたおか よしや)

片岡佳哉(1953~)は岩手県盛岡市で生まれ育つ。大学でヨットを始め、その魅力に取り憑かれた。

卒業後はコンピューターソフト制作会社に就職したが、冒険したいという心を抑えきれず、ヨットを買うことを決意。着るもの、食べるもの、あらゆるものを節約して貯金に励む。

就職して2年目の冬に全長7.5mの小型ヨットを中古で購入。

海外でも働きながら旅を続けられるようにするため、そしてエンジンの整備を自分で出来るようにするため、自動車整備の職業訓練校に入って一年間技術を学んだ。

1981年8月、日本三景で有名な松島から、たった一人で世界一周の航海に乗り出した。

2ヶ月かけて太平洋を渡り、ロサンジェルスに到達。南米大陸最南端、憧れのホーン岬へ向かうために住み込みで働いて資金を貯めた。

この頃ロスのヨットハーバーで出会った不思議な老人の薦めで、チリ近海は内海、パタゴニアの多島海経由のルートで行くことに決める。

3ヶ月かけてたどり着いた南アメリカでは、パタゴニア特有のものすごい突風に悩まされたり、陸の孤島のような奥地の村に立ち寄ったり、ペンギンのステーキを食べたりと多くの体験をした末についに最果てのホーン岬へ。

そしてこの航海を乗り切ったことで自信を得た彼は、続いてなんと南極を目指す

その途中、嵐に遭ってマストを失い、命からがら陸地に流れ着いたりもしながらも諦めることはなかった。

スポンサーも無く、海外の行く先々でアルバイトをしては資金調達する状態だったが、翌1986年に再び挑戦し、ついに日本人初のヨットによる単独南極大陸到達を果たした。

 

彼はこの後、時期的な問題からこの地で越冬せざるを得ないと判断して、近くの南極観測基地へ「春まで居させてもらえないか」と頼みに行くんですが、あえなく断られています。

そして一か八か決死の覚悟で極寒の海からの脱出を図る。

小型ヨットで南極ですよ、南極。

それも金銭、技術、補給など誰のサポートも受けずにたった一人で。

こんなすごい冒険を成し遂げた人なのに、ほとんど誰にも知られていないだなんて、もったいない。

最近やっとこの人の本が出たらしいので、気になる人は是非チェックしてみて下さい。

 

山野井 泰史(やまのい やすし)

山野井泰史(1965~)は日本屈指のクライマー。

高校時代からクライミングにハマり、卒業後にアメリカへ。クライマーの聖地ヨセミテで数々の難ルートを攻略する。

1990年、25才の時には南米パタゴニアにあるフィッツ・ロイの冬季単独登頂を世界で初めて達成。

これはエベレストに登るよりもはるかに難易度の高いチャレンジだったが、この山そのものが日本ではまださほど知られていなかった為、スポンサーを探したものの得ることが出来なかった。

以後スポンサーを探すことはせず、すべて自己資金で賄っている。

その後ヒマラヤの山々などにも次々と挑戦。2002年にはヒマラヤ、ギャチュン・カン北壁の第二登(=史上2番目の意)に成功するが、下山時に雪崩に巻き込まれて重度の凍傷を負う。

この凍傷により両手の薬指と小指、そして右足のすべての指を切断することになった。

この時一緒に登っていたパーティの中には彼の妻である山野井妙子氏もいて、彼女も同じく凍傷により指を切断している。

 

登山、特にクライミングに少しでも興味がある人なら誰でも知っているほどの有名人ですが、それでも一般的には知らない人の方が多いんじゃないかと思います。

この人たちのすごいところは、この凍傷以後もクライミングを諦めず、垂直の大岩壁に挑み続けていること。

「不屈」とはこの夫婦のためにある言葉かもしれない。

 

まとめ

有名な人もいいけど「一般な知名度はゼロ」みたいな人のすごい冒険譚の方がワクワクしませんか!?

できればそういう人をもっと追記していきたいと思ってるんですが、今日はとりあえずここまで。

「本物の冒険家」と「フェイク冒険家」の違いを考える へ続きます。

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